オーストラリアの先住民

歴史的に、アボリジニはオーストラリア本土やタスマニア、グルート島、バサースト、および北部準州のメルビルのような大陸沿岸の島、さらにはクイーンズランド沖のモーニングトン島などに住んでいました。トレス海峡諸島民はクイーンズランドのヨーク岬突端とパプアニューギニアの間にある島々に住み、本土の一部地域社会にも住んでいて、パプアニューギニアや太平洋諸島の住民の文化と多くの点で類似します。
アボリジニは氷河期に東南アジアから島伝いにオーストラリア大陸に渡ってきたと考えられていて、その時期は5万年前以上とも言われていますが、いずれにしても今日まで途絶えることなく地球最古の民族文化を継承しています。大陸に渡ってきたアボリジニは次第に大陸全土に渡って定住し、多くの部族に分かれてそれぞれの言葉を話し、狩りをし、子どもを産み、自然と共存した生活を営んでいました。
しかし1788年、イギリスの第一次植民船団が到着しオーストラリアが植民地として歴史を始めると同時に、アボリジニの虐殺の歴史も始まりました。イギリスはこのときアボリジニと交渉したり融和することなく、一方的に植民地化していき、イギリスが先住民との協議や取り決めを 持たず植民地化したのは英連邦の中でオーストラリアだけ。そのため、植民開拓が広がると同時にアボリジニの土地は略奪され、また虐殺や伝染病により民族の存続すら危ぶまれました。
1901年、オーストラリアが連邦政府を結成して独立すると同時に、白豪主義が台頭し、政府は 先住民にたいして隔離政策をもって完全に白人社会からその存在を抹殺してきました。 アボリジニは、土地はもちろん、その言葉や文化などを奪われ、オーストラリアから疎外されてきたのです。
その後の市民権獲得運動の結果、1967年の国民投票でアボリジニはようやくオーストラリアの国民として認められ、自立の道を歩むこととなります。
1991年には、このようなオーストラリア社会の暗部を認識し、オーストラリア社会とアボリジニ社会との相互理解を促進するための「和解委員会」が設立されました。翌年92年には白人入植以前のアボリジニの先住性を認める「マボ判決」がだされ、されに先住民憲法が制定されて 一気にアボリジニの権利回復運動が加速。2000年に開催されたシドニーオリンピックでは、世界中にアボリジニの存在やその文化がアピールされました。
最近は先住民やトレス海峡諸島民の血を引くと名乗るオーストラリア人が増え、2001年6月30日現在、アボリジニとトレス海峡諸島民の人口は46万人と推定され、これはオーストラリア総人口の2.4パーセントにあたる。政府は、先住民の保健、住居、教育、雇用および経済発展の機会などを改善する大きな努力を始めています。2002-03年度に 政府は、先住民計画のために記録的な25億ドルの予算を割り当て、こうした計画や政策は、先住オーストラリア人が経済的な自立を達成し、またまだ一部で残っている不平等の是正を乗り越える手助けをしています。
オーストラリアの先住民たちは、現在大学、文学、スポーツ、芸術、ビジネス、政治、専門職といった様々な分野で活躍していますが、平均すると今でも高い失業率や犯罪率、低い進学率や平均収入、国の平均より20年も短い平均寿命などアボリジニの置かれている状況は今もなお深刻なのも現実です。
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アボリジニー文化
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