オーストラリアの主な歴史
- ユーラシア大陸の出現
- アボリジニの渡来
- オーストラリア大陸発見
- キャプテン・クックの航海と植民地成立
- 流刑囚植民地
- ゴールドラッシュ
- オーストラリア連邦の成立
- 第1次世界大戦とガリポリ・ナショナリズム
- 第2次世界大戦と英国離れ
- 白豪主義から多文化社会へ
その昔、世界の大陸は1つであったと言われていました。 このオーストラリアのユーラシア大陸も以前は他の大陸とつながっていたとされ、1億数千年前には『ゴンドワナ』と呼ばれる南半球に存在した巨大な大陸の一部でした。このゴンドワナには、今のアフリカ、オーストラリア、 南極、南アメリカ、インドフ5大陸と、ニュージーランドなどの島々がまとまって1つになっていたと考えられています。そして、徐々に大陸が分裂をしていき1億万年前〜4500万年前の間には 現在のだいたいの形ができたと言われ、それがユーラシア大陸の出現です。
約6〜4万年前、地球は氷河期でした。当時オーストラリアとニューギニアの間の海は大量の水が凍り、現在の海面より122mも低く二国を自由に渡り歩いて行く事ができました。そこで、 アジアからニューギニアをつたってこの地に移ってきたのが『アボリジニ』だろうと考えられ、彼等は約5万年ほど前にオーストラリアに渡ってきたと推定されています。なぜ、 アボリジニ達がこのオーストラリアを目指したのかはいまだに不明ですが、飢饉や北方の強大な部族に追われたからとも言われています。その後、地球の温度が上昇を始めたことによって オーストラリアは1つの大陸になり、孤立されたアボリジニ達は独特の文化を持ち、先住民として今でもこの地で生活を送っています。
ヨーロッパにおいてオーストラリア大陸が始めて登場したのは中世末期のこと。しかし、実際は論理学と神話学における架空の大陸で、その後、オランダのウィリアム・ヤンスが この架空の大陸を発見すべく遠征隊として航海に出て1606年に発見しました。ヤンスはこの大陸肥沃な土地と資源があると信じ理想の土地を期待していましたが、代わりにヤンスが見たものは乾燥した土地、「黒い肌をした先住民」だけでした。二度に渡る航海で、 彼らはタスマニア島を発見し、ニュージーランドにも到達しましたが、その後、貿易上の特産品が期待できなかったことから、約1世紀間、ヨーロッパから探検隊が派遣された記録はありません。
英国の調査船『エンデバー号』の船長に任命された、当時41歳の探検家キャプテン・クックと調査団のリーダーを務めた当時25歳のジョセフ・バンクスは、1770年4月29日にボタニー湾(シドニーの郊外)に上陸しました。その後、北上し8月にケープヨーク付近で、オーストラリア 東岸部の英王室による領有を宣言しました。1786年に入り、イギリス政府はオーストラリア大陸の占有植民地化に本格的に動き始め、オーストラリア東海岸にNSW植民地の成立を決め、退役海軍将校フィリップを初代総督に任命しました。
1788年1月26日、流刑囚780名を含む1200名がシドニー湾に上陸しました。アメリカの独立によって、イギリスはかつての植民地のジョージアに囚人を送り込めなくなったため国内の監獄は囚人であふれかえっていたのです。当初、この案は支持されませんでしたが、 フランスが太平洋地域に感心を持っている事が分かり、イギリスは流刑囚をオーストラリアに送ることにしました。その後、1868年まで延べ15.8万人の囚人が大陸に送り込まれ、 当初は食糧難や天然痘の蔓延、治安の悪化などにより、思うようにはかどりませんでしたが、植民地の建設も1790年代に入り好転しはじめました。1797年に南アフリカから輸入された羊(メリノ種)の輸出が1803年に始まり、また、ニューカッスルでの石炭の発見も同じ時期に開始。 1810年代に、シドニー西方の肥沃な平野が発見され、1803年にタスマニアの領有を宣言し、1825年に英領自治植民地として独立しました。 1826年に、大陸の反対側の西オーストラリアへ入植が始まり、1829年に正式に英植民地となりました。(全オーストラリアの領有完成) 1836年にマレー川河口に南オーストラリア植民地が誕生しました。
1851年、エドワード・ハーグレイブスという探鉱者がオフィルで金を発見したのがきっかけとなり、ゴールドラッシュが始まりました。これに刺激を受けたビクトリア植民地は金発見委員会を作り、採算にあうような金鉱を見つけたものには報奨金を払うということにしました。そのため、一獲千金を夢見る人々が ぞくぞくと集まり、ビクトリアの人口は急激に増加。その後もオーストラリア各地で金が見つかり、中国人やイギリス人を含む100万人もの人々をオーストラリア大陸に流入させました。
イギリスに発見されてからオーストラリアは、長い間イギリスの植民地になっていました。そして、1850年の植民地政府法の制定により、オーストラリア各植民地は植民地憲法を制定し、自治政府と内閣制度をもち、普通選挙の導入など、植民地ながら近代的政治システムを備え持つ社会となりました。 自治植民地となったことから各植民地境界の存在がもたらす不都合さ、不便さ(郵便、交通、通信、鉄道等のインフラの不統一など)が次第に認識されるようになり、連邦政府の樹立の機運が高まってきました。 1891年、オーストラリアの植民地代表にニュージーランド代表を加えて行われた「オーストラレイジア国民協議会」各植民地の一般投票において連邦化を決定するという決議を採択しましたが、NSW議会がこの決議を認めなかったため、連邦化への道 は挫折。 その後10年にわたり、幾多の議論が交わされ、1901年1月1日、ようやくニュージーランドを除く6植民地が、ついにオーストラリアとして発足することに。 一番初めにメルボルンが臨時の首都と定められていましたが、正式の首都を決めるのには各州の意見はなかなかまとまらず、そこで、まったく新たな場所に首都を置く事が決まり、現在のキャンベラが首都となりました。
オーストラリアには、イギリスから自立するだけの国力は備わっておらず、大国イギリスの防衛力に依存してのみオーストラリアの国家生存が可能であると考えられていました。したがって、有事における対英協力は必要不可欠となっていました。 第1次世界大戦で、アンザック軍(ANZAC)と呼ばれるオーストラリア、 ニュージーランド連合軍は1915年4月25日、トルコのガリポリ半島においてトルコ軍と激戦を交え多数の犠牲者を出し、オーストラリアにとって敗戦であったにもかかわらず、ガリポリ戦はオーストラリア人のナショナリズムを大きく刺激する事件となり、アンザック・デイとして記念されることになりました。 オーストラリアは第1次世界大戦で33万人の兵士を投入し6万人の命をなくしました。その代償とし得たものは国際連盟への加入。これにより、オーストラリアは国際社会において独立国として認められることになりました。
フィリピンから撤収したマッカーサー米司令官が、ブリスベンに対日反抗基地を置いたことから、オーストラリアは対日戦の基地としての役割を果たすことに。1942年2月、北部のダーウィン、ブルームは日本軍による空襲を受け、町は壊滅状態となりました。 さらに、5月末にはシドニー湾内で日本軍の特殊潜水艇によるフェリーの撃沈、6月初めにはシドニーやニューカッスルの住宅地が外洋から砲撃をうけることになります。この戦争により、オーストラリア人の国民意識は高揚し、独立国家としての明確な国民意識を持ち始めることとなりました。
第二次性か対戦後のオーストラリアでは、国防、経済両面において適正な人口が必要であるという認識が強まり、政府は公式な移民計画を実施しました。最初は、イギリス、アイルランドからの移民をあてにしていましたが、徐々に不足し、非英語系のヨーロッパ難民を受け入れることに。 50年代になると、復興により、ヨーロッパ難民も不足し始め、イタリア系、ギリシア系と東ヨーロッパ社会主義圏からの移民が増加した。これらの人々も60年代になると減少し、代わりにレバノン、トルコなどの中近東の難民、移民を受け入れるようになりました。 それと同時に、アジアからの移民も教育、専門技術、熟練などの点において高い資格を持つものに限り移住を認め、(これより先56年にアジア人 にも市民権が与えられるようになりました。)さらに、70年代の後半からインドシナ難民の積極的受け入れが始まり、今日では人口構成が多様化し、移民全体に占めるイギリス系の割合が減少し、中国、ベトナム、香港、フィリピンなどからの 移民が増加してきました。当初、移民政策はメルティングポット型の同化を期待していましたが、その後変更され、法の前の平等、機会均等の保証し、母国語や文化の維持を認めるという文化多元化主義を採用。 さらに、70年代後半には、積極的に彼らの文化や言語維持のために援助を行うとい方向への転換が見られました。こうして、現在では、オーストラリアは多民族国家として形成された社会となっているのです。